わたしは新婚旅行でローマに行ったので、サンピエトロ寺院でミケランジェロの「最後の審判」を直接見てきました。教科書などでしか見たことのない絵でしたので、なんとなく美術館のようなところにすごい作品として飾ってあると思っていたのですが、実際は普通の礼拝堂のようなところの壁に絵が描いてあったのでかえってびっくりした覚えがあります。ただ、青色を基調としたわたしの好きな色調の絵で、あまりにも美しい絵なのですごく心に残っています。
ところで「最後の審判」というのは、聖書でいうところの歴史の「終末」のことです。「終末」という考え方は日本人にはなじみがうすいので、閻魔大王の裁判みたいなものと思ってらっしゃる方も多いのではないでしょうか?もしくは聖書の最後に「ヨハネの黙示録」という予言書がありますので、「ノストラダムスの大予言」などのイメージと重複して、ものすごくおそろしい天変地異をイメージされる方も多いかもしれませんね。
今日は「終末」について書いてみます。
かなりおおざっぱな説明ですが、「聖書」を聖典とする宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では歴史の最後に「最後の審判」があり、現在生きている人だけでなく、過去に死んだ人も全員よみがえって、それぞれが裁判を受け、天国か地獄に振り分けられることになっています。
旧約聖書の中では終末がすでに訪れたことがあり、その記述の内容がとても強烈です。ユダヤ人は世界の中で唯一神に認められた義人アブラハムの血統的子孫であり、預言者という神の代理人を通して神と一問一答することのできる民族でした。(ノアも義人でしたが、子供のハムが裏切ってしまったためにそのような血統を残すことができませんでした。またキリスト教ではイエスの死によって、わたしたちユダヤ人以外の外国人も救いを受けることが可能になりました。イスラム教の教義はわかりませんので、もし知ることができたらどこかで書いてみたいと思います。)しかし、ユダヤ民族は神の導きに従わず、預言者のたびたびの警告を無視したため、とうとう神から見放されることになりました。それがユダヤ民族としての終末であり、歴史的な事件としてはアッシリアやバビロンによる征服です。いろんな預言者を通して神の怒りが示されているのですが、ずっと読んでいると憂鬱になるほどです。
金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。(ゼファニヤ書 1章18節)
このようなイメージが強いため、「終末」というと神の怒りとしての天変地異が続き、情け容赦なく地獄に追い落とされるできごとのようなイメージがあります。現に自分の良心にきいてみて、自分が神の審判に耐えられると思われる方は本当に少ないのではないでしょうか?
しかしわたしは聖書を読んでいて、「終末」についてまったく異なった予言がされていることに気づきました。同じ「終末」に関する記述の中にこんなものがあるのです。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。
お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えらえる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにしお前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。
(ゼファニヤ書 3章15節、17節)
この予言は内容から考えてアッシリアやバビロンの時のものではないようです。とすれば「最後の審判」のことを示しているように思えます。。
これらの両面の予言は同時に成就するのでしょうか、それとも地獄に行く人と、天国に行く人それぞれ別々に予言がなされたのでしょうか?
実はわたしは同時に成就すると考えています。
アッシリアやバビロンによって町に火が放たれ、奴隷として多くのユダヤ人が捕らえられたことを頭に浮かべると、火のことを単なる火事だと考えてしまいます。そうすると火が示すものは天変地異ということになりますが、別のとらえ方もあります。「(わたし自身が)火に焼き尽くされる」と言葉を加えるとどんなイメージになりますか?焼かれて死ぬほどのつらい思いをするかもしれませんが、自分の中にあるみにくい部分が完全に清算されるととらえることができると思います。そうすると一片の曇りもないわたしの中に主なる神が入って来られても不思議はありません。おそらくそのような時がそれぞれの人にとっての「終末」です。
三浦綾子の「氷点」の結末で、自分のこころになんの曇りもないと思っていた陽子が自分のこころの中に氷点のような罪の傷を見つけ、こころのよりどころをなくし絶望して死を選びます。とても良心の強い方です。しかし命をかけるほどの覚悟があるのならば最後のその傷まで焼き尽くしてしまえる時が必ずくる、それがまさしく「終末」の時であるとわたしは思います。たった100年に満たない短い人生では不可能なことかもしれません。だからこそわたしたちは何千代もかけて何千度も死に、こころを焼きながら、その時を待ってきたのだとわたしは思っています。
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
(ルカによる福音書 12章49節)