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生きていても死ぬことができる

2022.06.01

category_[生と死]

日野原先生は東京から福岡の学会に飛行機で移動中、その飛行機がハイジャックされ北朝鮮に連れていかれるという経験をされています。以下はインタビュー記事からの抜粋です。

 

「日野原重明氏に聞く」から抜粋(週刊医学会新聞 2012年10月29日)

――赤軍派による「よど号ハイジャック事件」(1970年)の後は,「世のため人のために生きよう」という気持ちがますます強まったそうですね。

日野原 あのときは58歳。3晩4日拘束された末に解放されてね。韓国の金浦空港から自宅に戻った翌日,家内と一緒に「ゆるされた第二の人生が多少なりとも自分以外のことのために捧げられれば」と挨拶状を書きました。

 橋本先生が「1週間ほど休養しなさい」と配慮してくださったので,その後は熱海のホテルに投宿したんです。睡眠剤を飲んでひと晩中寝て,朝起きたら太陽が昇って芝生がきれいでね。あの瞬間に生まれ変わったような気持ちになって,「残された人生は神様から与えられたものだ」と感じました。

 

58歳といえば、日野原先生がちょうど今のわたしくらいの年齢のときのことです。

飛行機のハイジャック事件というのは現代の日本では考えにくいできごとですが、「テロリストによる人質立てこもり事件」と表現するとまだイメージしやすいかもしれません。要するに人質たちは3晩4日の間、生きた心地がしなかったということです。しかも飛行機が着陸した場所は北朝鮮、個人の努力の及ばない国同士のやり取りに自分の生命がゆだねられてしまっているわけですから、すべてを天命に任せるしかない究極の状況だったわけです。日野原先生はそこから生きて帰ってこられました。一度死んで生まれ変わり、残された人生は神様から与えられたものだと決意されたことは容易に想像できることですし、実際に先生は残りの人生をそのように歩まれました。

そうなのです。人は人生の中で生きたまま死ぬことができるのです。たくさんの偉人が同じような体験を記録に残されていますが、誰にでも可能なことではあります。もちろん生半可な覚悟でできることではありません。しかし死ぬような苦しみを通してそこで死んでしまわずに新しい人生を出発する、この覚悟はわたしたちにとってとても重要な考え方だと思います。

大学受験に失敗した、希望と違う部署に配置転換された、思いもしない災害にあったなど順風満帆な人生が思いもしない事件によって暗転することがあります。親しい人に裏切られることもあるでしょう。しかし、その後思いもしない運命が拓けて今の自分になったという話をよく聞きます。このように自分以外の要素によって大変な苦痛を受け、死ぬような思いをすることがある反面、自分から進んで死ぬような思いを選択することもできます。自分から進んで痛みを引き受け脱皮しようという試みです。歴史的には多くの修道者がそのような道を歩まれました。蛇が脱皮する時に、それこそ痛みを伴うような狭い場所を通ることで古い皮を脱いでいきますが、断食や滝行などを行い自分の肉体と戦うことで、自分の精神を脱皮させようとしてきたわけです。こういう行為も生きながら死のうとする行為だとみなせます。

そしてその死から生き返り復活しようとしているのです。

煩悩は人間の肉体の生存本能つまり、肉欲から生じるものです。これらの誘惑から自由になることができなければ精神の自由を得ることはできません。

聖書には以下のような文句があります。

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

(ローマの使徒への手紙 8章5~6節)

つまり肉欲から自由になれていないうちは生きているようであっても死んだ状態にあるといえるのです。死ぬような苦労をしなければ、そのような状態から自由になり、再び生まれた命の状態になることはできないということなのでしょう。