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死ぬよりいやなこと

2022.06.02

category_[イメージトレーニング]

「死ぬよりいやなことはありますか?」

こんな質問をされたら何と答えられますか?

 

わたしは即答できます。

「損することです」

 

最近「タイパ」なる言葉があるそうですね。「コスパ(コストパフォーマンス)」から派生した言葉のようで、タイムパフォーマンス、つまり時間効率がいいかどうかという価値観のことです。「タイパ」を上げるために映画すら倍速で観る人がいるということで話題になっています。

わたしは「校門からこの教室に来るまでの道順だってしっかり考えれば効率のよい道順がある、常に効率のいいパターンを探しなさい」という中学時代の数学の先生の話がとても頭に残っていたので、何をするにしても効率のよさを考えながら生きてきました。ですから観光旅行だってゆっくりはしていられません。決められた時間にいかにたくさんの観光スポットを回るか常に段取りを考えています。時刻表や道順、レストランの込み具合から、トイレの場所、切符を切る職員の仕事の速さまですべて計算に入れ、頭の中の段取りを更新していきます。今日うまくできなかったことも明日はうまくこなそうと無意識のうちに考えているのです。こんなことだから、一緒に行動する家内は苦労したでしょね・・・。

そして作戦通りすべてがうまくいって予定より数十分早くホテルの部屋に帰った後、いつも思うのですが、部屋で何もすることがないのです。せっかく得をしたはずのその時間が無為に過ぎるのを部屋でじっと待っている自分を客観視して、なにをしているんだろうと考えてしまいます。

効率の良い生き方は仕事の面ではとても重要なテクニックです。無駄な作業を極力減らすことで、余裕をもって多くの仕事をこなすことができます。しかし仕事のない日にいつもと同じ調子で時間を節約していると、なぜか余った時間をもてあましている自分がいることに気づきます。なぜ時間を無駄に使うことがそんなに嫌なんでしょうか?

時間を無駄にするということは、言い換えれば損をするということです。

もう少し丁寧に説明しましょう。時間を無駄にするということは、からだを動かす時間が必要以上に長いということです。それはつまり、余分な時間ただ働きしたということになります。労働価値説に基づけばわたしの労働力を無料で提供してしまったことになります。

わたしたちの子供の頃は、仕事を始める少し前に集まって、仕事の準備をしておきなさいと先生から言われていたものです。始業時間になってから着替えたり、準備を始めたりするなどもってのほかでした。今、そのような話をすると「昭和ですね~」と言われるのですが、逆に始業前の数分を節約したところで何になるのだろう、仕事をするのはそんなに損なことなんだろうかとわたしはいまだに不思議に感じます。また「昭和ですね~」と言われそうですが。

昔、共産主義国家が全盛のころソ連や東ドイツなど東側の国に行ったことのある方のお話を聞くと、びっくりすることが多々ありました。食堂や空港職員などが、お客さんが入ってこようがお構いなしに挨拶もせず、トランプなどに興じていたというのです。細かい話はいろんな体験談をご覧になってください。とにかくそれらの国には顧客サービスというものが一切存在していなかったといいます。

共産主義というのは国家がすべての資産を所有するかわりに、すべての国民に安定した生活を保障するシステムです。理論上、出自や実力の有無など人間に一切の区別はなく、個人間の競争は存在しません。トマス・モアの「ユートピア」に描かれた世界を実現しようとして生まれた実験国家でした。しかし、ご存知の通り共産主義国家は破綻してしまいました。

その破綻した大きな理由の一つに、頑張ったことに対するインセンティブがない、つまり何もしなくても国民全員に同じ生活を保障されるというシステムの中で、人がまったく努力をしなくなったということがあります。何も報酬がないのに、挨拶をしたり、進んで仕事をしたりするのは損だという心理が人間にはあるのです。まさに労働価値説の理屈です。ロシア人であろうが、その他の人種であろうが、基本は同じです。大部分の人は「損をしたくない」ので、何もしなくてよい状況におかれれば、能力的にも時間的にもやろうと思えばできるのに、基本的に何もしなくなります。社会主義国家の実験の中で人間の本性があぶり出されたとわたしはみています。

たいていのお店では、強いお酒を注文すると、必ずお酒とは別にお冷がサービスされます。お酒を飲む途中でお冷を飲むと酔いが少し冷めるので、お冷を使ってお酒を飲みすぎないようにコントロールできます。そこで1万円の高いワインをおいしいと飲んでいる人に対して、お店の人がお冷は1杯50円ですと一言付け足したとしましょう、きっと言われた人は水を飲む量を減らすと思います。1万円と比べたら大したことはないはずなのですが、今まで無料だったお水が50円になっただけで、ものすごく損するような気分になります。人間は基本的にとてもケチなのです。つまり損をすることがとても嫌いなのです。

「人の為に生きる」という考え方がよいとわかっていても、自然にそれができない理由は人間のそのような損を嫌う性質にあります。

しかし、わたしたち人間にはそのようなケチな性質を簡単に乗り越えてしまえる性質をも備えられています。

わたしは「漢気(おとこぎ)」という言葉が好きです。男前な(漢気のある)女性をたくさん知っているので断言しますが、「漢気」は女性にもあります。後進を育てるために、苦しんでいる患者を助けるために、世のため人のために一肌脱ぐ、つまり経済的、時間的な損得を無視して動いてしまうのが「漢気」です。見返りなど考えもしません。ボランティアなどきれいな言葉が照れくさい方も実は結構「漢気」を発揮されています。この「漢気」いいかえれば「公共心」が損を嫌う性質をおさえつけてくれるのです。

さて、つきつめて考えていくと、人間は食べるものにさえ不自由しなければ、誰でも生命を維持することができます。食べ物を手に入れる必要に迫られていなければ、実は「漢気」を発揮することだけに集中して生きていくことが可能です。さらに、全ての人がそれぞれの分野で「漢気」を発揮すれば、社会システムを維持することさえも可能だと思います。何が言いたいかというと、現代社会で最大の問題とされている貧富の差の問題は簡単に解決できるということです。

お金の価値がゼロになれば、どんなにお金をたくさん持っていても、それらはただの紙切れやデータにすぎませんのでもっていないのと同じです。そうすると貧富の差というものがまったく存在しなくなります。共産主義というのは理論上まさにそのような結果を目指していたのだと思います。しかし、共産主義は人間の損を嫌う性質を無視していたので、失敗しました。

しかし、さかさまにに考えれば、そこに問題があったことがはっきりしましたので、

もし、わたしたち人間全員が損を嫌う性質を克服し、公共心で生きることができるように心の底から変わることができるならば、これだけ技術が進歩してきたのですから食べ物の問題さえも解決して、理想的な社会を実現することが可能になるとわたしは思います。