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本能

2022.06.07

category_[価値について]

先日ユーチューブで5匹のサルが並んで餌をもらっている動画を観ることがありました。

ちゃんとしつけられているのか、順番を乱すことなくしっかり並んで座っています。そこにゆでたトウモロコシが順番に与えられていきました。それぞれのサルはちゃんと与えられたトウモロコシをかじっています。一粒ずつかじるので、なかなか食べ終わりません。

面白かったのは2個目のトウモロコシが配られ始めた時でした。全てのサルが1個目を夢中で食べているので、2個目のトウモロコシはサルに直接渡さず、座ったサルたちの前に並べてあるお皿にのせられていったのですが、あるサルが食べかけの1個目のトウモロコシを足の間に置き、2個目をとったのです。1個目を足で確保したまま2個目をとり、他のサルよりも早く2個目を食べようとしたのでした(1個目はあとで隠れて食べるつもりだったのでしょう)。隣のサルも同じようにあわてて2個目を確保しようとします。2個目を確保したサルはそれすらもまた隠して隣のサルの2個目までとって3個目として確保しようとしました。

そのような姿を見て、普段は意識しませんが、わたしにも同じような要素があるなと感じざるをえませんでした。そして、自分の中にこのようなあさましい根性があることを再認識し、少し悲しくなりました。

サルだけではなく、すべての動物にはそのような要素があります。なぜなら、自然界では目の前の食べ物を他の個体にとられるまえにすぐ確保しなければ、生存競争に生き残れないからです。特に成長期に食べる量はからだの大きさという結果に直結しますから、兄弟間での争いはし烈です。遠慮がちな個体は大きくなれないので、兄弟の中でも生き残る確率は少ないでしょう。競争してでも周囲よりたくさんのものを確保したいという性質は生存本能だと思います。

3大欲といわれる睡眠欲、食欲、性欲も動物に本来備わっている生存本能と考えて間違いありません。ですからそのようなものがからだから湧いてきても、おかしいことではありませんし、落ち込むようなことではありません。むしろ重要なものです。しかし、それが人間の社会生活の中に持ち込まれると、欲望の対象が食べ物だけでなく、お金や持ち物のような生存の可否とは関係ないものにまで広がってしまうので厄介なのです。

動物には不思議なことに3大欲にあらがうような本能も存在します。親が子供を守り、育てる本能です。鳥が海などでわざわざとってきた獲物を巣に持ち帰って、自力で餌をとれないひな鳥に食べさせます。ひな鳥は待ち構えていて、親がもってくる食べ物をむさぼります。親鳥はそれで損をしたなどとはきっと思わないでしょう。また敵がひな鳥を狙って攻撃しようとすると、親鳥はわが身の危険をかえりみず敵に攻撃をしかけます。

このように自分の生存を脅かしてまでも、次の世代を守ろうとする本能も動物には備わっていることがわかります。相反する本能は動物のからだの中で当然戦うのでしょうが、結果としてどちらかの本能が優先されます。子供よりも自分の個体を優先する動物は子孫を残しにくいでしょうから、子育てをする動物の中では自然に他者を守る本能が優先されてきた可能性があります。

わたしたちの中には生存本能に由来する「損を嫌がる」性質もありますが、他者を守ろうとする「利他的な」性質も併せて存在します。どちらの性質も必要なもので、なくなってよいものではありません。しかし相反する性質を同時に行動にうつすことはできません。長い動物の歴史の中ではどちらの本能を選択してきたのかがその動物の行動様式に結果としてあらわれるのでしょうが、人間は個体ごとに考えて選択することができるので、歴史的にこころのなかで葛藤をくりかえしてきたのでした。

ところでいつまでもこのような葛藤を繰り返していていいのでしょうか?

からだの欲求はとても強いですが、それをコントロールできなければ、わたしたちのこころは永遠にからだの奴隷です。からだをコントロールするしか、わたしたちのこころが自由になる道はなさそうです。

しかし、「からだをコントロールする」という言葉を入り口にして道をさがしていくと、お釈迦さまや多くの修道者の方々がそうしてきたように、断食や滝行など難行苦行しか方法が浮かびません。そして、現代人は生活が忙しくそのようなことをする暇もないので、このような道を敬遠しがちになってしまいます。特に現代は技術が発達して安楽に移動や生活ができますから、怠惰になりがちです。肉体を鍛えることはもちろん重要ですが、現代の生活に合わせて方法をさがさなければなりません。

そこでわたしが提案したいのは「みずから進んで損をする」生き方です。

資本主義の世界ではなかなか「損をする」という考え方は難しいと思いますし、単なる寄付や施しをイメージした言葉でもありません。

今後もおりをみて、この考え方に触れていきたいと思います。