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人類は一つの体

2022.06.17

category_[所感]

聖書からわたしがもっとも好きな部分を抜粋してみます。

わたしが医者という職業についているからでしょうか?体に関する記述に興味をもってしまいますね。

パウロがコリントという場所にある教会の信者にあてた手紙からの抜粋です。

 

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように・・・。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

(コリントⅠ 12~26)

本当に人間の体というのはよくできていて、基本的に無駄な部分などありません。それらが、不思議なくらい密接に連携しながらバランスをとって、恒常性を維持しています。医学を知れば知るほど体の仕組みは神秘的ですらあります。足の指一つとってもなくていいものではありません。外反母趾がひどくなった患者さんからしたら、正常な指がどれほど貴重でしょうか?足の指を見ても、深く感謝するべきなのです。ほかより弱く見える部分がかえって必要なのですというような感覚はもしかしたら、体の一部を失ってしまったパラリンピックの選手の方々の方が、痛切に理解できるのかもしれません。わたしたちはもう少し自分の体を貴重なものとして扱う必要があるのだと思います。

また、この文章は人類全体を一つの体に見立てた比喩でもあります。人類全体を一つの体と考えれば、たった一人の人でも不必要な存在などいるはずがありません。そのような感覚を持ってもう一度読んでみてください。「〇〇人」は必要がないとか人類の一部ではないなど言ってはいけないということです。それどころか「〇〇人」が栄光を受ければ、人類全体が喜ぶべきなのです。

このようなところが、わたしがこの文章をどうしようもなく好きな理由です。