めがねをしていない方にはわからない感覚だと思います。
もう30年以上めがねを使用しているのですが、たまにめがねについて思わぬトラブルがおきることがあります。
たとえば、めがねをしたまま顔を洗ってしまう・・・。涙や汗を拭こうとしてしまう・・・。こんな感じのことはたまにあるのですが、それほど精神的には堪えません。
しかし、これだけは堪えるというトラブルがあります。
いつも置いてある場所にめがねが見当たらないことがあるんです。
どんなにさがしてもありません。下の階に降りてリビングをさがし回ったり、洗面台のまわりをさがしたりするんですが、さがしてもさがしても見つからないんです。とうとうあきらめて自分の部屋に戻り、めがねなしで今日はどう過ごそうか、メガネ屋さんにいつ行って、新しいめがねを作ろうかなどと考えていると、手が顔のあたりで金具に触っているんです。そうなんです。ずっとめがねをかけていたのに、そのことをすっかり忘れて、めがねをさがしまわっていたのでした。これはけっこう堪えます。自分にがっかりするというか、がっくり全身の力が抜けちゃいますね・・・。
さて、めがねの存在自体を忘れてしまっていたように自分という存在を忘れることができたらと、ふと考えることがあります。こころが自由になって、からだをもっていたことをすっかり忘れてしまって、夢の中にいるみたいに自由に生きられたら、そんなふうに思うのです。
わたしというからだの境界からわたしがしみだして、拡がっていって、柱や壁や布団もわたしに同化してわたしの一部になってしまいます。もっともっと拡がって、いろんな場所までわたしになってしまうのです。なんとなくすてきな感じがしませんか?