わたしと言う存在について思索を深めていると、「過去」「現在」「未来」について考えてみることがあります。
たとえば地下鉄のホームで電車を待っている時、こんなことを考えてみました。
先週も同じ曜日の同じ時間にこの電車を待っていた。現在のわたしは現に存在し、考え、そしてなにかを感じている。しかし、先週のわたしは現在のわたしの心持ちや考え、感情、そしてこれから行おうとしている仕事について想像することもしなかったし、できなかった。現在のわたしのこころと先週のわたしのこころはあきらかに違うものである。現在のわたしがわたしであるとするならば、先週のわたしはすでにわたしではないということになるのではないか・・・。
逆の考え方もできます。過去のわたしがわたしでないはずはない。生まれてから現在までわたしがわたしでなかったことはないのだから、過去のわたしの積み重ねこそがわたしであって、これからどうなるかわからない現在のわたしや未来のわたしは“まだ”わたしではない。
脳も含めて物質でできている肉体としてのわたしは、毎日食事と排泄をしていますが、肉体の外の世界にある原子や分子を大量に取り込んで、また同時に肉体の中にあった原子や分子を大量に排出しています。当然の結果として、物質としてのわたしはものすごいスピードで材料が入れ替わり、破壊と再生を繰り返しながら存在してます。
物質だけがわたしという存在を規定しているとすれば、わたしであったはずの原子や分子はどんどん捨てられてなくなっていきますので、数日で現在のわたしは存在しなくなります。
もし物質としての脳がわたしのこころの全てであるとするなら、わたしは現在にしか存在できず、過去になったわたしはどんどん捨てられていくことになります。
物質が入れ替わっても過去のわたしは記憶として残されていますが、では、記憶こそがわたしという存在なのでしょうか?それでは、健忘症や認知症で記憶を失った人はもうわたしではないのでしょうか?
こんなことも考えてみました。