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2022.10.17

category_[イメージトレーニング]

服は着て、そして脱ぐことができます。また誰かが着ていて脱いだ服をわたしが着ることもできます。

ですので、わたしのからだといえば、服を脱いだからだだけと考えるのが一般的だと思います。

しかし、こう考えることもできます。

背広を着てネクタイを締めた人は凛々しく見えますし、同じ人がパジャマを着ていると緊張感を感じなくなります。服を着ている人から見ても、やはりスーツを着ている時は緊張感を持っていますし、リラックスした服を着ている時は気分もリラックスしています。

このようにみてみると、わたしやわたしを見る人の感情に影響を与えるわけですから、服まで含めてわたしのからだだという考え方もできます。

少しこじつけのようですが、もうしばらくお付き合いください。

実際に細かく見てみるとからだの内の世界と外の世界との境界は思っているほどきれいに分かれていません。からだの表面の細胞はみな死んだ細胞ですし、腸内細菌叢がからだの外側なのか内側なのかは議論が分かれるところです。けっこうからだの境界はアバウトなのです。

髪型や服装はわたしの気分を表しているようですし、逆にそれらをしっかりコーディネートして気分をよくしよう、気合いを入れようとすることもできます。

ではどこまでが服なのか?こう考えたことはありませんか?一番外側のコートまで?

こんな考え方はできませんか?

誰かがわたしの部屋を訪ねてきて、見るのはわたしの服を含めたわたし、だけでなく、わたしが存在するこの部屋の調度品や壁紙、わたしの部屋全てです。それなら、わたしはこの部屋も服と同じように“着ている”と。

知り合いにLPレコードを鳴らしてくれるバーのマスターがいるのですが、わたしは彼のことをレコードジャケットの並んだ壁やレコードプレイヤーやスピーカーが置いてあり、お酒のボトルがカウンターの上に並んでいる暗く落ち着く雰囲気の部屋を“着た”男として見ていることにある時気づきました。

こんな考え方を人に話すと、いやいや部屋を“着る”ことができるんだったら、あなたはこの街自体も“着て”るんじゃないの?と言われそうです。たしかにそうですね。

それなら、

この地球もわたしの服・・・?

もっと大きくこの大宇宙全部がわたしの服であり肉体と考えてもいいのでは・・・?

星新一みたいな話になってしまいました。