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フェイント

2023.01.11

category_[イメージトレーニング]

昨年はサッカーワールドカップがありましたし、バスケットボールなどたくさんのスポーツの試合を観る機会がありました。

質の高いプレーは本当に見ごたえのあるものですが、それらを観ていて考えたことがあります。

一流の選手のプレーを観ていると、フェイントの巧みさに圧倒されます。守備の選手もプロの選手なので、とてもうまい守備をするはずなのですが、それらの守備の選手が見事に騙されてしまうのです。

フェイントというのは寸前まである方向に動くと思わせておいて、その動きを予想して先回りしようとする守備の選手をだまし、実際は予測と別の動きをすることです。この一瞬の動きには観客すら一瞬騙されてしまいます。

見事なフェイントの動きを観ていると、まるで時空が二つにわかれてしまったように見えます。その選手だけが違う時間の中を動き、その選手以外(守備の選手だけでなく、まわりの環境まで)一緒につられて別の時空に流れて置き去りにされてしまったように見えるのです。

わたしが暮らしている日常生活ではわたしのこころもからだも、そしてまわりの環境も少しずつ変化していきます。変化するので、すべてが同じ時間の流れの中を流れて行っていると“錯覚”しています。

しかし、時間は重力の影響を受けるので、細かく言うと違う場所にあるものは違う時間の流れの中にいます。そのことだけでも、わたしたちの感じている時間感覚というものが幻想であることがわかります。わたしの頭と足では時間の流れが違うのですが、普段そんなことを感覚で感じることはありません。

さて、これからイメージトレーニングをしてみます。わたしが急ブレーキをかけてわたしの時間だけをストップしたとイメージしてみましょう。ぎゅっと両かかとを踏ん張って宇宙全体の時間の流れに逆らい急ブレーキをかけるのです。わたし以外のもの、からだも環境も宇宙全体はそんなことがおこると予想していないので、まさにフェイントにかかったようにある方向に動いてしまいます。どうですか?少しだけ、時間の流れから自分が切り離された感覚を感じることができたでしょうか?

時間を超越してものを見るというのはこういうことです。

老化していく自分の身体や、成長する植物、日照の変化や動く秒針など変化しているものを見ていると、わたしも一緒に変化している、そして同じ時間の流れの中にいることを当然と感じてしまいます。

しかし一度すべての時間から自分を切り離してものを見ると、まるで違う風景がみえてくるのです。生も死も時間の流れの中にあるものですが、たった数十年の時間の流れの中でしか見ていないので、絶対的なものに見えます。しかし、同じ事象でも長い時間を俯瞰してみることができれば、ちがう見え方ができる可能性があるのです。