主よ、時は あなたの御手のなかでは 無限です。あなたの分秒を数えられる者はおりません。
昼と夜が過ぎ去り、時代は 花のように咲いては 凋みます(しぼみます)。それでも、あなたは待つことを知っておいでです。
あなたの世紀(とき)は 相つづき 一本の小さな野花をも完成させます。
わたしたちには 余分な時間はありません。そして時間がないために、機会を奪い合わねばなりません。貧しいがために ぐずぐずしてはいられません。
こうして、口やかましく求める人ごとに 時間をさいているうちに、時は過ぎ去り、あなたの祭壇には いつまでたっても 供物はあがらない。
夕暮れ、わたしは あなたの門が閉まりはしないかと急ぎます。それでも来てみると、まだ 時間(とき)があることに気づくのです。
(ギタンジャリ R・タゴール 森本達雄 訳注 50)
わたしは時間について考えることが好きです。これから何度も考察していくと思いますが、今日はこの詩を通して感じたことを書いてみます。
わたしたちは時間に乗って移動しています。
よくわからないですよね。もう少しくだいて表現してみます。
アインシュタインは子供の時に光の速さで光を追いかける夢をみたことがあります。そのことをきっかけに思考を進めて相対性理論に行き着きました。アインシュタインは自分が光の粒に乗って空間を移動するという思考実験をしたわけです。アインシュタインと同じようにわたしたちも光ではなく今度は時間という粒子に乗って時間軸を移動していると想像してみましょう。
場所によって時間は早く流れたり遅く流れたりしますから、わたしが乗るのはわたしが存在する場所の時間の粒です。すると自動的にわたしはわたしが乗っている時間の粒と同じ光景をみることになり、「現在」という時間だけを経験することになります。ですから、今わたしが触れている物や見ている物は間違いなく現実だ、事実だと認識できます。これがわたしたちが経験している世界ですよね。
でもよく考えてみてください。
昨日のわたしも同じように現実の世界で事実を確認しながら生活していましたよね。でも、現在のわたしがその昨日の経験を事実として認識できるでしょうか?昨日食べたステーキは現実ですか?現在のわたしにとっては幻にすぎません。どんなに食べたかったステーキでも、実際に口に入れおいしいと感じたステーキでも現在のわたしにとっては現実ではありません。過去のまぼろしなのです。
ものすごく苦労してエベレストに登頂したとしましょう。登頂した瞬間に頂上にいたわたしは現実の存在でしたが、次の日に安全な自分の家に帰ってきてくつろいでいるわたしは昨日という「過去」の経験を頭の中に思い出すことができたとしても、昨日のわたしのようにエベレストの頂上の雪や岩を現実のものとして実感することは絶対できません。
「現在」という瞬間にたくさんの宝物のような物質を集めてきて満足したとしても、または最高の体験をなんとかしてかなえたとしても、この瞬間が過ぎたらそれらはまぼろしにかわってしまいます。それらはわたしの記憶、もっというとこころにしか残らないのです。それらは時間の粒に一緒に乗ってきてはくれないということです。
時間の感覚から自由になるということは、この時間の粒から降りてしまうことです。
時間の感覚がないところからみれば、単細胞から出発して植物の組織を少しずつつくりあげ、小さな野花にする何億年という時間もあっという間なのかもしれません。