高野山で伺った話の中からいくつか紹介してみます。
まずは曼荼羅(まんだら)について。
今までのコラムでもいくつか無意識について話を書いてきました。これは心理学の内容を踏まえて書いたものでした。また、自然の風景を通して感じる世界についても詩的に表現してきました。ただ専門的な言葉を使用せずに書いてきましたので、感覚は分かるけれどもぼんやりしていると感じられたかもしれません。
わたしがこれまで表現してきた心情世界が、真言密教の世界の中で言葉で表されていましたので、今回は仏教用語について、わたしなりの表現で説明してみたいと思います。
金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)は知恵の曼荼羅といわれています。
金剛はものすごく強い精神を表していますので、この曼荼羅は簡単に不信や疑いの心に負けない強い信念を通して見えてくるものだということです。
まず金剛界曼荼羅の基本は5仏ですが、その中心は大日如来です。そしてそれを取り囲む4仏は中央の大日如来の功徳と働きが4方に分けて現れたものです。
たくさんの仏様がおられますが、細かくご紹介すると言葉に慣れていない方が眠たくなりますので、あえて最低限の名前だけを書くことで表現させてください。
4仏の周囲にたくさんの仏様が描かれていますが、それらの仏様は基本的に、この4仏同士の作用の結果顕現されたものです。また顕現された仏様同士の働き合いの結果、その周囲にさらにたくさんの仏様が生じています。
さて、基本となる5仏はわたしたちの精神世界を細かく分析して表現しています。
前5識、いわゆるわたしたちの感覚器官で感じる5感のことです(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)。これらの感覚は4仏の一つ不空成就如来の知恵とされていています。
6識は意識のことです、心理学では自我にあたります。これは4仏の一つ阿弥陀如来の知恵とされています。
7識は無意識のことです。仏教用語では末那識(まなしき)といいます。これは4仏の一つ宝生如来の知恵とされています。
8識は無意識の中でもさらに深層にあるまったく意識されない無意識とされていますが、河合隼雄氏の提唱した「普遍的無意識」に近いものではないかと思います。仏教用語では阿羅耶識(あらやしき)といいます。これは4仏の一つ阿しゅく如来の知恵とされています。
密教ではさらにその奥に阿摩羅識(あまらしき)、自性清浄心と呼ばれる9識が潜み中心の大日如来の知恵に転じるとされています。
これらのマトリョーシカのように多層的な精神構造を時間的な変化も加えて、1枚の2次元世界に表現したものが金剛界曼荼羅です。
曼荼羅は、本来は立体的いえもっと多次元的な世界を1枚の紙に表現しているので深く感じながら見ないと、ただの幾何学模様にしか見えません。
弘法大師はこの曼荼羅を仏像を用いたり、寺院を用いたりして立体的に表現しようとされました。つまりこの曼荼羅を2次元の模様としてみておられたわけではないということがよくわかります。