ゴータマ・ブッダは色・受・想・行・識の五蘊は「我ではない」として、人々を実体化された「わたし」に対するこだわりから離れさせようとしました。一方、「我は有るか、我は無いか」という問いには何も答えないという姿勢で一貫しています。
ゴータマ・ブッダその先へ 羽矢辰夫 春秋社
前回に続き、同じ書籍からの引用で始めます。
とてもわかりづらい文章です。
「我はない」という言葉は漢字文化で育った我々の中では自然に「無我」と訳されます。ですから、「無我の境地」などの言葉がこれまでの歴史の中で生まれてきたのだと思いますが、筆者は、サンスクリット語の仏典の解読を切り口にして、ゴータマ・ブッダの説いた真意は「無我」ではないと説明します。
私たちはなにげなく、私という存在があり、それに対して私以外の存在があると思っています。例えば水の入ったコップを手に取るとき「コップ」も「水」も私の一部とは認識していません。「私」が「私以外のもの」を手に取ると認識しています。
この「私」と「私以外」を分けてとらえる感覚、つまりこだわりがすべての迷いの根本にある。このことがゴータマ・ブッダの教えの根本であるというのが筆者のとらえ方です。
「コップ」も「水」ももともと「私」である、私の着ている「服」も「私」である。私と話している相手も「私」であるのだから、激しく言い争っている相手も「私」である、地球もはてしない宇宙も「私」であるという自他融合的な感覚に至れば、迷いのなくなる境地、つまり「涅槃」に至るというのです。
つまり、「無我」ではなく「非我」の感覚を身に付けよというのです。
私もこの考え方にとても共鳴しています。ただ、簡単に身に付けられるとは思いませんが・・・。
あまりにも「自我」を強調しすぎる西洋社会の思潮は、「自分」以外に「他人」を作り出すことを前提としているので、どうしても「私」の外に「敵」を作り出し、攻撃する現象を起こしやすいと思います。
パレスチナやウクライナのニュースを見ながら、感じることの多い書籍でした。