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復讐するは我にあり

2022.06.20

category_[所感]

今朝の日経新聞のコラムから

先だってNHKのラジオ番組「子ども科学電話相談」を聞いていて、はっとするような質問に出合った。「なぜ雨の日を『天気が悪い』と言うのですか?」。思い込みという名のぜい肉で分厚く重たくなった常識の脇腹を、小さな指でつつかれたような心持ちになった。

尋ねた小学5年の児童は不思議に思った。きっと曇りのないまっさらな心と頭で。なぜ雨=天気が悪い、なのだろうと。気象予報士の誠実な答えもよかった。世の中には雨が好きな人もきらいな人もいる。けれどどちらかといえば都合の悪い人の方が多い。だから雨の日を「天気が悪い」と言うようになったのではないか。

この予報士はたとえ雨が降っても、めったに「天気が悪い」とは口にしないと語っていた。「雨の降る日は天気が悪い」は当たり前のことを指すたとえである。でもどしゃぶりに遭遇しても悪態をつかず「ああ!結構なおしめりだ!」と言えば、悪天候でなくなると仏哲学者アランは「幸福論」(神谷幹夫訳)に記した。

この偽善っぽさが少々鼻につく向きには、ジーン・ケリーの映画「雨に唄えば」はどうだろう。恋に落ちた男が水たまりに飛び込み、雨樋から落ちる水を浴び、ずぶ濡れになって歌い踊るシーンは、いつ見ても心躍る。あるいは北原白秋作詞の「あめふり」か。ピッチピッチ チャップチャップ・・・・。童心に帰るのもいい。

(春秋 令和4年6月20日)

確かに・・・。とうなずくような内容でした。

たしかに本来天気には良いも悪いもないですよね。自分の都合や感覚で勝手に「悪い」と決めつけてしまう。こんなことって、他にもないですか?

「あの人の態度はよくない」「あんな言い方はない」と気に障ることが毎日の出来事の中にはたくさんあります。最近はネット記事を読むと、その下にたくさんのコメントが並べて表示してあって、さらにそのコメントに対して、いいねやよくないと評価がされています。そして、その記事を読むと「こんなささいなことが気になるのか?」「そんなに悪くとらなくても」「そこは認めてあげようよ」などとこころの中で思うこともしょっちゅうです。

もっとたちが悪いのは、自分が正論を言っていると思い込んでいて、自分の正義を振りかざして他人を非難する人です。その根底に差別意識が見え隠れすることもあって、そういう意見を見ると偏見や差別は根深い問題だなと考え込むことが多かったのですが、最近は逆に差別意識を持つことが悪だとされるようになっています。差別意識が垣間見えるとそれだけでそういう人には私刑を行ってもよいと勘違いする人がいて、そのような人々から袋叩きにあってしまいます。

そうですね、「私刑」です。「不倫」や「賭博」「薬物」「動物虐待」などは恰好の材料になっていて、有名人のこのような記事が出ると、法律の刑事罰とは関係なく勝手にネット上で言論による私刑が行われるようになってしまいました。

さて、現代は絶対的な価値観のない世界です。なんとなくムード(流行の雰囲気)が漂ってきて、「ジェンダーフリー」とか「サステナビリティ」とか「ダイバーシティ」とかいう単語がいろんな場所で使われています。それぞれの価値観に対してどうこうというよりも、それらの単語をあたかも自分の考えのように語る人が急にとても多くなったことに危惧を感じます。そしてもっとこわいのは、深く考えもせずにそんな雰囲気を自分の価値観だと錯覚して、他人への攻撃に使うことです。

ロシアとウクライナの戦争においても、双方が正義を主張していますから、戦争の当事者でないわたしたちは正義が絶対的なものではなく、主張する人の立場による相対的なものであることを実感しています。ですから、正しい正しくないと非難をしながら争うのは無意味だと感じます。だからこそ、その抗争の犠牲者たちの姿を見ながら、今すぐにでも「ひと」が「ひと」を傷つけるのをやめてもらいたいと痛切に思うのです。

わたしに言わせれば、「私刑」も同じことです。金科玉条のような単語を振りかざして、他人を非難するのはすぐにやめてほしいと思います。足りないところは補ってあげてください。成長に時間がかかるなら、待ってあげてください。

ひとはその人生の責任をどこかで必ずとらなければならなくなります。だからといって、それは他人が干渉することではないのです。

ちなみに「復讐するは我にあり」という有名な聖書の言葉があり、映画の題名にもなったので、自分が痛い目にあったら復讐してもよいという意味でとらえている方が多いですが、実はこの言葉の主語は神です。復讐は神様がすることだから、お前が直接復讐するなという意味です。(「復讐するは我にあり」佐木隆三 直木賞 講談社)