私という人間が実在すると誰もが思っています。しかしよく考えを進めるとだんだんわからなくなっていきます。
ここで仏典「ミリンダ王の問い」から賢者ナーガセーナとミリンダ王の問答について抜粋された文章を読んでみましょう。
だが賢者は馬車は何でできているかと問い、まったく同じ理屈でこの主張に反論する。
馬車とは車輪なのか。それとも枠組みか。馬車は部分の集まりなのか。
王は注意深く答える。「確かに馬車は、車輪と車軸と枠組みの関係のことです。それらがわたしたちに対して一体となって機能することを馬車と呼んでいるのであって、これらの関係や出来事とは別に馬車が実在するわけではありません」。するとナーガセーナは勝ち誇ったようにいう。「馬車と同じように、ナーガセーナという名前も関係と出来事の集まりを指しているにすぎない」と。
わたしたちは時間と空間のなかで構成された有限の過程であり、出来事なのだ。
(「時間は存在しない」 カルロ・ロヴェッリ NHK出版)
わたしという存在は実際あるのでしょうか?