今朝、通勤途中に空の写真を撮ってみました。
この空を見るまで、わたしの頭の中は今日一日の仕事の段取りや昨日の会議での出来事など雑多なことがごちゃごちゃと浮かんでは消え、何かはっきりとした考えをまとめる気もなくて、心の中がただただモヤモヤとしていたように思います。
バスを降りて、あ~今日はブログを書かければいけなかったと思いだし、何かネタになるような写真がないか周囲を探しながら歩いていました。こんな時に限って何も見つかりません。
ふと空を見上げてみました。少し薄汚れた街の風景とはまったく異質な、本当に美しい透き通った青い色が視野に飛び込んできました。白い雲の模様の多様さと空の色とのバランスにはっとして写真を撮ってしまいました。こんな空をみていると、今までの悩みを本当に小さく感じます。それは、この空が、わたし自身がこの大きな空や大地の一部であることを思い出させてくれるからなのかもしれません。
さて、前回の投稿でわたしたちの中には2種類のこころがあることを示唆していました。このことについてもう少し考えてみましょう。
脳の研究が始まったばかりの時期には脳の中にある松果体という部分が見えないこころと脳を結ぶ器官だという説がありましたが、現在では誰も信じていません。
現代の医学では神経細胞が電気信号で情報を伝え、電気信号を受けた神経末端であるシナプスが情報伝達物質を使って次の神経細胞にさらに情報を伝達する仕組みがあきらかにされています。また情報伝達物質を人工的に合成して薬を作り、気分や感情などこころの働きにまで影響を与えることもできるようになっています。脳の各部位がこころのどの部分を担当するかというところまでくわしく脳の働きが明らかにされていますので、ともすれば脳がこころを作り出しているという結論を出してしまいそうです。
しかし、どこかでこのわたしのこころが、脳細胞という物質の中で偶然作り出された電気信号だと考えることに抵抗のある方も多いのではないでしょうか?
しかし、ここでこころが物質以外のなにものかということについて憶測で語ることはしません。
以前、アバターについて投稿したことがありました。
アバターはコンピューターの作る仮想空間の中でわたしのかわりに会話をしたり、買い物したり、いろんな経験をしてくれるわたしの分身です。
わたしはキーボードやその他のデバイスを用いてアバターを操作しますが、電子空間の中にいるアバターに直接触れることはできません。
そうなのです。
アバターとわたしの肉体は電子情報と生身の肉体という構造上、また物理学上、根本的に違う存在なので、直接触ることができません。ですから、腹話術の人形みたいに手取り足取りアバターを動かすことは絶対にできないわけです。どうやって動かすかというと、デジタル機器にわたしが入力した指示をデジタル機器が電子的な情報に変換してアバターに伝えてくれます。逆にアバターを通して経験したことや得られた情報を通して操作しているわたし自身が影響を受けることもありえます。映画館ではすでに現実のものになっていますが、実際に情報機器から匂いがしたり霧まで出るものもあります。将来的には味までするようになるということです。このようにして電子空間の中での感覚を疑似体験できるわけです。
見えないこころを“アバターを操作するわたし”、肉体を“電子空間の中にいるアバター”と考えれば、電子空間の中のアバターという存在とわたしとの関係は、からだとこころの関係となんとなく似ていますよね。この場合、脳がデジタル機器のような役割を果たしているとイメージすればやはり感覚的にしっくりくるような気がします。人間という存在がそのようなからだとこころを持つ存在である可能性はまだまだあるとわたしは思っています。
松果体という器官だけを調べても何もでてきませんでしたが(おそらく、そのような単純な仕組みではないのでしょう)、そのような見えないこころを物質の情報に変換する装置のようなものを探したくなる気持ちはよくわかります。仮想空間のような新しい技術が発展していくことで、これから何か新しいインスピレーションが湧いてきて、こころの存在についてもっとしっくりする理論がでてくるのではないかと期待しています。