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葬儀と悲しみ

2022.06.27

category_[生と死]

霧にかすむ高野山の写真をいただきました。雲がすごく近くて、下界とはまた違った趣きがありますね。

さて、先週は家内の父の葬儀があり、そのまま火葬場にも同行しました。その際に感じたことを書いてみたいと思います。

葬儀はキリスト教会で行われました。ご遺体の棺が正面に据えられ、お花が飾られて、粛々と式は進められましたが、讃美歌と牧師様の説教だけのシンプルな式でとても心地よいものです。会葬者が皆で歌を歌うせいか泣く方はほとんどおられず、すっきりとしたいい式でした。

式の進行を葬儀屋さんが裏方としてささえてくださったのですが、式の最後の段階で少し違和感を感じ、ああここで式の主導権が教会から葬儀屋さんに変わったんだなとわかる瞬間がありました。

出棺の準備が始まったのですが、葬儀屋さんたちが飾れていた生花をたくさん切って会葬者に最後の挨拶をお願いしますと渡され始めました。悲しみを誘うアナウンスがされる中で、会葬者の方々が次々にお花をお棺の中に入れながら、ご遺体を見て挨拶していかれるのですが、徐々にすすり泣きがあちこちから聞こえだし、悲しい別れの式に雰囲気が一変しました。

他のお葬式でも違和感は感じていたのですが、葬儀場での式は最初から最後まで葬儀屋さんが仕切られるので、このようにはっきり雰囲気が変わることはありません。そういう意味では葬儀場以外での式であったことで、そのようなことをはっきり感じることができたのだと思います。

葬儀屋さんに悪気はありません、それどころか式を厳かにするために一生懸命尽くしてくださっていますし、滞りなく式を行えて非常に感謝しています。

ここでお話ししたいのは、違和感の正体は「お葬式は悲しいもの」という思い込みだということです。このあたりの感覚が会葬者によってまちまちで、悲しいものだと思っている方がまだまだ多いということがありますから、葬儀屋さんは無意識に悲しみを誘うような演出をしてしまうんだろうなと感じました。

たしかに別れはさびしいものです。しかし、送られる方が地獄など悲しい場所に行って苦しむ、または消えてなくなってしまうというのなら話は別ですが、そうでないならそんなに悲しむことはないと思います。何といったらいいのでしょうか、離れて怖がるのではなくて、もう少し死を正面から見据えた感覚が広まっていったらいいのかなと思います。

親族でもないのに通夜から本葬が無事に終わるまで、心を尽くしてお手伝いしてくださったクリスチャンの方々に心から御礼申し上げます。

次回は火葬場で感じたことを書いてみます。