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わたしとは

2022.10.12

category_[イメージトレーニング]

これまで3回にわたり、わたしの存在について考察してみました。

一旦本当に書きたかったことについて書いて、これまでの投稿をまとめてみたいと思います。

こんなことを考えるようになったきっかけは、父について考えたことでした。それまで、わたしという存在は父とは違う人格だと思い込んできました。当然そうでしょう。父の生前は別の個体として会話もしていましたし、思考も経験も、感じ方も考え方もまったく異なる存在でしたので、わたしはわたし、父は父と思ってその関係をいろいろと思い出しながら考えてきました。

しかし、ある時逆説的にものを考えてみようと思ったのです。

お互いに思考することは違っても同じ心を持っていると考えることはできないか?という仮説を立ててみました。脳内物質や感情の影響を受けない「こころの核」のような部分について、わたしのこころが父のこころと同じでないという保証はあるだろうか?と考えてみたのです。

そう考えると、父とわたしの感性というか何か共通なものがありそうな気がしますし、そもそも見えないこころに、はたして境界というものがあるのだろうか?とも思いました。

現在のわたしの結論は、「そういうこともありうるな」です。そう考えると父や母だけでなく、祖父も祖母も同じこころを持って生きていたのではないか?と思えるようになりました。時代によって、環境によって思考や経験は違いますが、その感性のようなものは同じものなのではないかと。

そのような考えをずっと続けていると、「待てよ、もしかして・・・」

わたしのこころの中心、こころの核にはもしかしたら、親や先祖と同じこころとかそういうものすら最初から存在しない、もともと何もないのではないか?外側の感情や物質のこころだけが機能していて、肝心の核の部分はスカスカに空いているのではないか?と思ったのです。

つまり、わたしというものが存在するとずっと思ってきましたが、それは錯覚だったのではないか?と思ったのです。

この仮説を別のものを使って例えてみます。

今までわたしが存在していると思い込んでいたわたしのこころはネットにつながっていないパソコンのようなものです。すべてのメモリーもシステムも一つのパソコンの中に入っていると思っていました。だから壊れたら、そこで終わりです。

しかし、実際のこころはクラウドシステムだった。メモリーもシステムもこのからだ(つまり個々のパソコン)の中にはなくて、実は全体をつなぐクラウドシステムの中にあったのだ、このパソコン端末自体はネットワークでつながってこそ作動するアバターのようなものだという仮説です。

わたしのこころの中心が「空っぽ」だと考えると、本当に自由になれることに気がつきました。わたしの名声、わたしの財産、わたしの愛情・・・、わたしに属していると思っていたものがすべて錯覚だと考えることができます。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

(ヨハネ福音書 14章20節)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

(コリントⅠ3章16節)