わたしは何度もお隣の国、大韓民国に行ったことがあります。昔は飛行機で行くことが多かったのですが、博多からプサンの距離が近いので最近は船で行くことも多くなりました。さて、船で4時間ほどの行程です。対馬を過ぎたあたりから、ずっと窓越しにある意識を持って海を眺めるのですが、一向に見つけることができないものがあります。
あるものとは何かというと、「国の境目」です。日本らしい海の様相と韓国らしい海の様相に違いがあるかというと、まったくありません。地図にははっきりと描かれている国境線が、実際には存在しないことがわかります。つまり、日本と韓国の境目というものは現実世界には存在しないわけです。
境界、境目というものははっきりしていそうで、細かく観察するととてもあいまいなものです。
今度はこのような目線でわたしたちのからだをみてみましょう。「わたし」と「わたし以外」の境目をじっくり観察してみます。手の皮膚を見てみます。空気と私の皮膚ははっきりと分かれていて、しっかりした境界がありそうです。しかし、よく考えてみると皮膚の細胞は生きていません。表面にある皮膚細胞の細胞核は失われてしまっていて、いわゆる皮膚細胞のなきがらのような状態です。今夜の入浴の時に石鹸をつけてこすればなくなってしまっているかもしれません。このような死んだ細胞ははたしてどこまで「わたし」の一部なのでしょうか?髪の毛もそうです。明日には床屋で切られてしまっているかもしれません。
逆に服や靴、化粧ははっきり「わたし以外」のもののように思えますが、他人は服装を含めて「わたし」を認識していますので、服が変わったりお化粧の仕方を変えただけで別人のような印象を持たれることがあります。「わたし」自身もプライベートな服を着ている時と制服などを着て正装している時はまったく心持ちが違います。美容形成や歯科治療で顔の中に人工物を入れたり、骨を削ったりして顔の形を変えることができますが、それらを含めて「わたし」だと認識するとすれば、服も「わたし」の一部と考えることができます。このように目に見えるからだを見るだけでも「わたし」という存在は境界のあいまいな存在であるといえます。
さてこのように考えていくと、「わたしの心」の境界はどこにあるのかと考えてみたくなります。目に見えない心ですから、まず最初から境界など見えませんし、その形すらわかりません。この境界がどこにあるのかということこそが、この自他融合的自己を見つけるカギになるのではと思うのです。
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こころのかたち
2024.01.26
category_[イメージトレーニング]