「ひきこもり」に関する本を読んでいた朝に、新聞のコラムに目が留まりました。
淋しいこころの持主が、いま一人の淋しいこころの持主と出会うなら、その二人は、もはや淋しい一人ではないのである
朝日新聞 天声人語 令和5年8月28日
高史明さんという詩人の言葉をみていて、何か感じるものがありました。
美しいイメージの言葉ではあるのです。映画にすればとてもいいものになると思います。
しかし、「ひきこもり」という問題について考えていたせいでしょう。
私が感じたのは、一人と一人が物理的に出会うだけで二人になるだろうか・・・?ということでした。出会うという言葉は、こころが出会うということも含んでいます。つまりお互いが相手を受け入れるという前提が必要なのです。物理的に近くにいるだけではだめだと思うのです。
だから人間同士というのは、いくら物理的に近くにいても、こころの交流をしない、表面的な付き合いだけをしていては、記憶にすら残らないのだと思います。
そんなことを考えた一日でした。