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いたずら好き

2022.05.12

category_[神]

R・タゴールの「ギタンジャリ」から1篇。

 

わたしは、戸口から戸口へと 村の小道を物乞いをしながら歩いていた。そのとき、あなたの黄金の馬車が、絢爛たる夢のように 遥か彼方に現れた。王者のなかのこの王は誰だろうと、わたしは考えた。

わたしの希望はふくらみ、失意の日々も これで終わった、と思った。そして、求めずとも与えられる施しと 塵のなかにいちめんにばらまかれる財宝を期待しながら、わたしは立っていた。

馬車は わたしのそばに来て 止まった。あなたは わたしを一目見て 微笑みながら降りてきた。わたしの人生にも ようやく幸運がめぐってきたかに思われた。そのとき 不意にあなたは 右手をさしだして言った ー 「このわたしに 何をくれるというのかね」と。

乞食に向かって物乞いの手をさしだすとは、なんという王さまらしいいたずらなんだろう! わたしは当惑し、どうしたものきめかねて、しばらく立ちすくんでいたが、やがて わたしの頭陀袋から おずおずと いちばん小さな米粒をとりだして、あなたにさしあげた。

日暮れどき、袋の中身を床にあけ、貧しいもらいものを積みあげて、そのなかに いとも小さな金の粒を見つけたとき、どんなにかわたしは驚いたことだろう! わたしは おいおい泣いた。そして、わたしの持てるいっさいを あなたにさしあげるだけの真実心(まごころ)がわたしにあったらと、かえすがえすもくやまれた。

(ギタンジャリ R・タゴール 森本達雄訳註)

 

ついつい小さな欲のままに生きてしまいがちな人生ですが、その小さな欲をかなえるのだけが神様ではありません。神様とこころを通じ合えた時にはこんな変化球もありえるんです。

神様は本当はいたずら好きです。アメリカ人がひどいいたずらをしたり、びっくりするようなプロポーズをしたりするシーンをテレビで観ることがありますが、こんな茶目っ気さえも人間が受け継いでいるのですから、たぶん生みの親である神様も本当は茶目っ気たっぷりのはずです。

わたしが幼い時には、単純にお願いをしてそれをかなえてくれる神様でした。でもわたしが成長し、もっと神様とのこころの信頼関係を深めていけば、きっと友となり、家族となってくれるはずです。

わたしが成長してそうすることができるようになったなら、そのときにはびっくりするような贈り物をしてみたい、そう思います。