ブログ

Blog

悲しみの中に幸福をさがす

2022.08.10

category_[イメージトレーニング]

昨日の読売新聞のコラムから

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に立派な長老が亡くなる前、青年アリョーシャを諭す場面がある。「悲しみあればこそ幸福にもなれるだろう。お前に贈る私の遺言だ。悲しみのなかに幸福を探し求めるのだ」。じつは文庫本で初めて目にしたとき、いささか抵抗を覚えた。悲しみは少ないほどいい。悲しみに幸福を探すという理屈は矛盾しないかと思ってしまうのは、やはり自分が極まった悲しみの体験者ではないからに違いない。

 

「悲しみの中に幸福を探す」・・・、深く心に刺さる言葉です。この言葉の意味を考えてみましょう。

悲しみはどういうときに生じるでしょうか?

喪失・・・大事な人を亡くしたとき、災害や仕事上の問題で財産を失ったとき

失望・・・就職や受験、恋愛がうまくいかなかったとき、見捨てられたと感じたとき

絶望・・・希望すら見いだせない境遇、不信され裏切られたとき、屈辱を味わったとき

このような思いをすることを通して幸せを見つけよとこの言葉は言っています。簡単なことではありません。とても深い悲しみを味わったら、数日いえ数か月はどこかにこもり、他人とは話もしたくなくなります。

しかし、一度でもこんな経験をしていれば、深い悲しみの中にある人に共感することができます。もし共感することを通して、そんな人の悲しみを少しでも癒してあげられれば、それはそれで幸せを感じれるかもしれません。

カエルは変態することが知られています。変態とはオタマジャクシに手足が生え、尻尾がなくなることですね。さて、わたしが、そんなおたまじゃくしの尻尾の細胞だったとします。わたしは細胞としてはしっかり仕事をこなして生きてきました。必要な時には命の限りに活動し、尻尾を激しく動かすことで敵から逃げることもできました。また大変な細胞分裂の作業もミスなく行い、後輩もしっかり作って育ててきました。もっと立派な尻尾になろうと希望を持っていたかもしれません。しかしこんなわたしに、あるときびっくりするような指示がきたのです。

尻尾がからだから切り離されることが決まりました。お尻のあたりの細胞が次々と死んで尻尾は、からだから切り離され、とうとうすてられてしまうのです。尻尾の細胞からすれば理不尽きわまりない指示でした。自分の活動にはなんの落ち度もなかったばかりか、おたまじゃくしが生きていくためには十分以上役に立っていました。それなのに、有無を言わさず捨てられることになったのです。これは尻尾の細胞という立場から見れば、とてもつらくて悲しいことです。

しかし、おたまじゃくしは新たに手足を得てカエルになり、今まで行けなかった陸上にも移動できるようになりました。もしあるカエルが尻尾に未練を持ち尻尾を捨てられずにいたとしましょう。このカエルは思うように動くことができず、カエルとしての本分を果たすことができません。

わたしたちの人生はこの尻尾の細胞に似ています。世界中に生きている人はそれぞれその時々に果たしたい思いを持ちながら生きています。しかし、それぞれすべての思いを同時に果たしていては、世の中がうまくまわらないということもあると思うのです。ですからそんな時は誰かが思いをあきらめ、その結果、悲しい思いを引き受けなければなりません。もしそうだとすれば、この世界から悲しみがなくなることはありません。

この尻尾の細胞がもし、この捨てられる悲しみの境遇の中で幸せを探すとしたらどうしたらいいでしょうか?

意識を細胞の中だけに持っていては、納得がいかないでしょう。しかしその意識をカエル全体と合わせることができればどうでしょうか?カエル全体としての方向性を知り、その成長を共に感じることができる知恵を得るならば、変態という新たな成長を大きな喜びとして感じられるのではないでしょうか?