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契約の書

2023.03.25

category_[聖書]

今朝なにげなく聖書を開くと出エジプト記の契約の書の部分が出てきました。

人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。ただし、一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。

人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。

(出エジプト記 21章20節~23節)

これは有名な「モーセの十戒」の一部です。

時代に合わない表現が多く、読み飛ばしてしまいがちな部分ですが、ふと観点を変えてみてみるとなんとなく感じる部分があります。

聖書には損害賠償に関する記述がとても多いことに気づきます。

この奴隷を“罪悪にしばられる生活をするわたしたち”の比喩だとみれば、上段の文章においてその奴隷の持ち主は罪悪にわたしたちを引きずるおおもとです。

わたしたちが理由なく打たれることで、損害賠償が生じるのであれば、わたしたちはそのような方法を通して罪悪から解放されていくのかもしれないとこの文章を通して感じました。

そのような見方でみてみると、下段の文章の“主人”が表しているのは罪悪のおおもとではないと解釈した方がよさそうです。